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神金湖之上老龍宮(掲示板)
- 1 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/08/29(Thu) 20:59]
- 儚龍(めんgろんg)の掲示板です。ここでは、コメントするまでも無い呟きをします。コメント内容が有用と判断した場合には各種活動空間・場所へ該当文の複製を行います。後々に使うような企画関連の話題は極力コメントの方で行って下さい。国家開拓 http://any.chi-zu.net/8847.html などで活動しています。宜しく。
・注意事項
この掲示板にては、原則上、長文で書き込まれましても対応いたしかねます。特に企画関連については記録閲覧の便宜を図るためコメント欄を用いて下さい。
また、全てのレス・リプライに反応するとは限りません。
- 281 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 16:07]
- >>280 第一の問題は、白主土城が大きすぎるということ。大きさだけで言えば、首都として機能しても遜色ないレベル。流石に上京(渤海)や大都(北京)には及ばないが、元代に唐努烏梁海(タンヌ・トゥヴァ)に遠征・平定目的で建設された益蘭城や、後金最初の首都である興京、渤海の鹽州(クラスキノ)城や南海府などより明らかに大きい。遠征・交易・前哨基地として作られたにしては大きすぎる。(金代に作ったとは考えにくいのでは)
→地形上の理由か?韃靼海峡を挟むため、より強固な兵站が必要であった?
第二の問題は、十三湊の安東氏の勢力が元の遠征にどのように対応していたか?ということ。元が資料通りに数万の大群を拠出できたのかは疑わしい(但し、開戦理由が言わば冊封による集団安全保障で、{時代が説により前後するが}{後の?}廟街辺りにアイヌが狼藉しに来ていた可能性もあり、士気や兵站の都合上、ジャワ遠征や日本遠征より有利と推測可能)が、アイヌ側の支援をしていたとも考えられるが、その勢力規模や、最終的に和睦を結んでいる辺り、様子見していたことは想像できる。
- 282 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 16:25]
- >>281 第三の問題は位置が奇怪なこと。元代に建州(明代の永明{アルチョーム}と双城子辺り)がアムール川流域より発展していたならば、わざわざ陸が近いポギピ辺りを使わずに作ることはできる…?(それはそれで驚きだが、地名記録状況からしておかしくはない話かも?)。だが、元代から清代にかけて記録された地名はほぼ北サハリンのみ。明代には亦失哈が来航して現地のアイヌ(わざわざサハリン東岸まで来ているあたりそれなりの勢力であっただろう)を冊封し波羅河(ポロナイ川、幌内川の意味)衛(※衛については後述)を設置している。対して南サハリンに言及する資料は(果夥城を白主土城に比定することやアイヌ側の動向を除いて)無い(地名を記録していない。民族については当てる漢字の違いはあるが吉里迷と庫頁のみで一貫している)。
- 283 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 16:50]
- >>282 何故か?以下考察
1.元(或いは金)が航路を忘れた説
元代の遠征では現地民を大量に動員する傾向がある。そのため記録を残すことを忘れた説。或いは動乱の中で資料が失われた。そのため後の中華の遠征者は律儀に(恐らく)ポギピ経由でサハリンに入った
2. 清隠蔽説(以下の隠蔽説とは、南サハリンに北同様かそれ以上に中華王朝が進出していたことを隠すということ)
清は満州を封禁地とし、露帝への対抗政策である闖関東まで漢民族入植を制限していた。サハリンアイヌと満州がアムール河口で接続があった場合には、サハリン島もそれに含まれていたとも解せる(現代の中国側の定義の外満州はしばしばサハリン島を含む)。その影響か?
3.露帝・蘇隠蔽説
国際法における先占権適用のために、清に圧力をかけて資料を破棄させた(そうだとすれば、後に南樺太が日本になることを認めたことについて合点がいく)
4.日露共同隠蔽説
釣魚・赤尾/尖閣諸島問題では、中国側は明代の資料を根拠に挙げている。また、中国は北方領土を“俄占“として日本の領土だとする姿勢を取り(※少なくとも現在の百度地図の表示)、海参崴·双城子·庫頁島の名称を盛んに使用し始めている。日露側から見れば、脅威なので、中国側の正当事由を減らすため、資料・遺跡を破壊するor発掘調査を制限し得る。
- 284 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 17:21]
- >>283 5.中国隠蔽説
中国にとって、ロシアは重要なパートナー国であるので、出来るだけ軋轢を回避したい。また、日本との領土的軋轢は直接利害が対立する中国南海(南シナ海)だけに集中したいだろう。しかし、中国国内の不況による世論・一部勢力過激化への恐れから関連資料を隠匿or抹消した
6.日露金欠説・中国消極的説
日本は戦前、いろいろな場所に支出していたため、発掘調査に積極的になる余裕が無かった(或いは、遺跡よりもインフラを優先していたため)。ロシア極東・サハリン州が金欠なのは言わずもがな。そして5.のような理由で中国が消極的だから
7.遺跡混淆説(あくまで可能性として)
中華だけでなく、実は日本側(安東氏?)や建州朝鮮族、靺鞨、韃靼、黒水部etcの遺跡があって、法的歴史的紛争の複雑化回避のために各国が憚っている説
8.サハリンいらない説(可能性として)
そんな辺境の島を支配したところでインフラ面で資金が取られるので歴史的領有正当化事由に興味が無い。資源についても、わざわざロシアと争う程でも無い。
9.安東氏orサハリンアイヌorオロッコが強かった説
地理的兵站や士気の都合上で中華側に何らかの問題があって首尾よく勝てなかった且つそれに対する資料が失われた説。この説だと、白主土城の存在に鑑みれば、拮抗した境界線があるはず。但し当時の安東氏の勢力とアイヌ部族の混淆した状況から難しさがある…
- 285 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 17:31]
- >>284
想像してみるとして、”面白い”のは、やはり隠蔽説・資料紛失説ではあるけども。私としては、豊原の平野、及び河口付近に元々何もなかった、ということなど、どうも納得しかねる部分がある…。
ただ、私はサハリンの地理状況について詳しくはないので、その辺が明らかになれば、納得し得る部分があるかもしれない。
- 286 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 17:53]
- 最後に”衛”について。
まず、明代以降の”衛”とは元々は役職であり、簡単に言えば、現地部族の酋長をその場所を統治する皇帝の臣下と認めることにより冊封するものである(対外部族に対するものは、”羈縻衛”と呼ばれる)。その仕組みの都合上、現代風に言えば自治区に近いのかもしれない。
衛には概ね城(現代の都市という意味ではなく、遺跡…土城など)が付き物だとするのは、 ”あくまで私の意見”だ。理由としては、衛の字義や他の場所に実際、土城があったから(例が無数にあるので历史地图と実際の遺跡の位置を照らし合わせよう)。外満州だけに注目しても、以下の三レベルに別れる。
1.確定レベル
ex.奴爾干衛 実際に土城或いは遺跡が発掘されていて、資料に明確にあるもの。
2.被疑レベル
ex. 建州(右)衛 資料に名前が確認できるが遺跡の存在が未だ確認されないものの内、資料からその場所と存在がある程度比定できるもの。この例で言えば、双“城”子或いは蘇“城”
3.可能性レベル
ex.波羅河衛 資料に名前が確認できるが遺跡の存在が未だ確認されないものの内、遺跡比定が困難なもの。
だからと言って、直ちに、“衛が資料にある=土城や遺跡がある“とはならない(重要) やはり、如何なる資料があれども、人間が記した以上は、フェイクがあると懐疑すべき。
- 287 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 18:14]
- ・白主土城を果夥城と比定した場合。※“白主“は松前藩の人?とか…とにかく日本人が命名している
白主土城は日治時代の本斗群好仁町に所在。だが、”果夥“は中国語で樹木に大量に果実がなっていることから転じて“(取るなど何か特定の行動をすれば)多く(の利益など)を得られる“という意味。現地の地名とは全く関係ない、いかにも遠征に相応しい名前。だから地名からアプローチすることはこの城に関しては意味がない。
城の規模や名前からすれば、征服を視野に入れていたことが推測できる。
尤も、中華がサハリンが島だという時期は利用可能な資料上、清代(皇與圖)なので、外満州の半島か何かだと看做していたと考えられるが…
- 288 ラプラス@sMUUnZES [2024/09/29(Sun) 18:29]
- >>287
好仁自体元々は宗仁と言う地名と名好(南名好)という地名が合わさった合成地名ですが、名好という地名自体の由来はヨモギがたくさんある場所なのでね…
それに普通に元があそこに拠点を構えた理由は全くわかりませんね、、
- 289 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 19:09]
- >>288 あの規模であるのと、資料から数万人送ったことがわかるので、「漂着して偶々そこに落ち着いた」ということはあり得ず、一時的にも一定の航路があったことが考えられます。
元(或いは金)があの位置に城を設置した理由は、利用可能な資料についてはどこにも記されていませんが、私の推測としては、地理的な理由を考えています。サハリンアイヌが東岸・豊原の平野双方に居住している中、好仁の岬に拠点を置けば、双方に進出することができます。例えば、山があるから真岡に拠点を設置してしまうと豊原の平野に進出することが困難となり、大泊に設置すれば(そもそも遠いですが)東岸が手薄になり、東岸にアイヌ側が押し寄せれば補給路を寸断される危険性があります。あの立地に白主土城があるということは、例えサハリン島が島だとわかっていなくても、ある程度周辺の地理を元や金が把握していたことが推測できるかと(だからこそ資料が無いことが不自然と感じます)。
- 290 ラプラス@sMUUnZES [2024/09/29(Sun) 19:38]
- >>289
今調べてみたところ個人的な予想ですが元が建てたとすれば動乱の際に資料が全て無くなったんではないでしょうか、、?(見れてはいませんが、元史とかにもしかしたら載ってる可能性も否めないが日本語で調べた範囲では起源についてはわからなかった
- 291 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 21:32]
- >>290 そうですよね、元崩壊時に残っていたとしても明代末期は混沌だったので書庫に被害があったかもしれませんし。ちなみに、白主土城を果夥城と比定したのは日本人学者の中村氏です。サハリン島南端に果夥城があると記述するのは、元史ではなく、元統2 (1334) 年刊「国朝分類(元文類)」という書です。界隈では結構著名な書物ですね
以下のサイトがソースを纏めています。https://www.sxlib.org.cn/dfzy/sczl/slgs_1/ltmmsdqmqdbysczlyj...
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