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神金湖之上老龍宮(掲示板)

1 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/08/29(Thu) 20:59]
儚龍(めんgろんg)の掲示板です。ここでは、コメントするまでも無い呟きをします。コメント内容が有用と判断した場合には各種活動空間・場所へ該当文の複製を行います。後々に使うような企画関連の話題は極力コメントの方で行って下さい。国家開拓 http://any.chi-zu.net/8847.html などで活動しています。宜しく。

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この掲示板にては、原則上、長文で書き込まれましても対応いたしかねます。特に企画関連については記録閲覧の便宜を図るためコメント欄を用いて下さい。
また、全てのレス・リプライに反応するとは限りません。



272 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/28(Sat) 23:11]
技術開発区・白烏湖完成 昌吉をどの程度開発するか…やりすぎるとページがやばくなるのでな…

273 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/28(Sat) 23:27]
中東永年平和国の内政がよくわからないな、オスマン帝国下であったような、ムスリムとユダヤの共存路線を継続してゆくと何が起こるのか…。

274 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 00:30]
コンゴのムブジ・マイから南のコバルト採掘エリアにある無数の道路を整備するの大変すぎィ

275 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 04:32]
国家開拓世界では、漂着や目撃を除き、南極の発見は1950年程度になりそう?発見するのは、地理的に、インカ、スペイン、英国のいずれかだと思われる。

276 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 04:39]
なお、(今のところ)規約的には…南極大陸に国家領域申請されても、国家の要件を満たさないので当然に却下される。領有についても、現実世界で南極が本格的に開拓されたことがないから、できない。
 今後の状況に鑑みれば、宇宙同様、新たに専用の規約を追加するものと考えられる。しかしその将来像は現実と同じようになろう

277 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 04:41]
ちなみ、“領有についても、現実世界で南極が本格的に開拓されたことがないから、できない“ の論理は、北センチネル島やアマゾン熱帯雨林の一部にも当てはまるけれど、正直南極と同視して良いものか悩んでいる

278 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 14:09]
まだアンインストールの冒頭の部分だけ歌ってる…

279 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 15:24]
サハリン島の南端の、白主土城…ちゃんとした論文があるのだけど読めなくなってたから…軽く調べてたことを薄っぺらい考察を交えて纏めよう。
 まず、出土品や建築方法云々の前に航空写真で見れば中華式なのは断定出来る。他を考える余地はない(実際に全ての説がそう)。出土品には鷲羽があって、交易品。
 元代建造説と金建造説がある。
 

280 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 15:39]
>>279 ・元代建造説
 鷲羽の交易や領地を巡る吉里迷(ニヴフ)人と庫頁(サハリンアイヌ)人の軋轢により、前者が元に救援を求めた。元は数万人規模で出兵して安東氏を後ろ盾とする(※諸説あり)アイヌ側と拮抗するが、漸次的に追い詰めてはいく。最終的には和睦して、サハリンアイヌは本格的に大陸との交易関係を結んだ。しかしその後は元が衰退。最有力説?
 ・金代建造説
 金がサハリン島まで影響力を伸ばして交易的な理由で建造したとする説。以上。

281 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 16:07]
>>280 第一の問題は、白主土城が大きすぎるということ。大きさだけで言えば、首都として機能しても遜色ないレベル。流石に上京(渤海)や大都(北京)には及ばないが、元代に唐努烏梁海(タンヌ・トゥヴァ)に遠征・平定目的で建設された益蘭城や、後金最初の首都である興京、渤海の鹽州(クラスキノ)城や南海府などより明らかに大きい。遠征・交易・前哨基地として作られたにしては大きすぎる。(金代に作ったとは考えにくいのでは)
 →地形上の理由か?韃靼海峡を挟むため、より強固な兵站が必要であった?
 第二の問題は、十三湊の安東氏の勢力が元の遠征にどのように対応していたか?ということ。元が資料通りに数万の大群を拠出できたのかは疑わしい(但し、開戦理由が言わば冊封による集団安全保障で、{時代が説により前後するが}{後の?}廟街辺りにアイヌが狼藉しに来ていた可能性もあり、士気や兵站の都合上、ジャワ遠征や日本遠征より有利と推測可能)が、アイヌ側の支援をしていたとも考えられるが、その勢力規模や、最終的に和睦を結んでいる辺り、様子見していたことは想像できる。

282 儚龍(めんgろんg)@KY6AgBod [2024/09/29(Sun) 16:25]
>>281 第三の問題は位置が奇怪なこと。元代に建州(明代の永明{アルチョーム}と双城子辺り)がアムール川流域より発展していたならば、わざわざ陸が近いポギピ辺りを使わずに作ることはできる…?(それはそれで驚きだが、地名記録状況からしておかしくはない話かも?)。だが、元代から清代にかけて記録された地名はほぼ北サハリンのみ。明代には亦失哈が来航して現地のアイヌ(わざわざサハリン東岸まで来ているあたりそれなりの勢力であっただろう)を冊封し波羅河(ポロナイ川、幌内川の意味)衛(※衛については後述)を設置している。対して南サハリンに言及する資料は(果夥城を白主土城に比定することやアイヌ側の動向を除いて)無い(地名を記録していない。民族については当てる漢字の違いはあるが吉里迷と庫頁のみで一貫している)。


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