■掲示板に戻る■ □過去スレ一覧□ 全部 1- 21- 41- 61- 81- 101- 121- 141- 161- 181- 201- 221- 241- 261- 281- 301- 321- 341- 361- 381- 401- 421- 441- 461- 481- 501- 最新50 ↓最後

レスが 490 を超えてます。500 を超えると書き込み出来なくなるよ
レスが 500 を超えてます。残念ながら全部は表示しません
儚龍(めんgろんg)’s Bulletin Board

1 儚龍(めんgろんg)@PSGoLIoz [2023/08/02(Wed) 12:04]
~Introduction~
Hi bro I’m Menglong(儚龙/儚龍/맹용)🇨🇳🇸🇬🇬🇧🇺🇸,Remember me pls XD! I welcome u & I hope it vice versa,cuz I believe it’s bonds between us is the key in this site or more. Let’s enjoy creation with us,my coming rate is low tho. In this site
・Mainly I write Japanese🇯🇵(Send so to me when u want to me to use English etc.)
・My main community & works
(国家開拓/Nation-Pioneering/国家开拓) No.8847
(Support-Group(社团) is now hidden.感谢社团的伙伴们)
⚠️Maybe i sometimes disappear or for good(
⚠️I often complain about sensitive stuffs,if u don’t like u can use mute;NG-user function. (make sure the function explanation)



238 ラプラス@qqGBTtsS [2023/08/26(Sat) 22:46]
>>235
もしかしたら廟街という大通りがあって、それが外部に伝わったときに何かしたらの間違えて都市名になったとか?
>>236
その敷香の要塞に関しては日本の樺太のWikipediaに
波羅河衛
編集
この時代の樺太には、応永19年(1412年)に明の宦官イシハ(亦失哈)が来航し、苦夷(多来加アイヌか)と接触。これについて、日本側では「応永の蝦夷の乱[14]」として記録が残っているという。応永35年/正長元年(1428年)までに、郡域内を流れる幌内川流域内陸部に住むヲロッコの酋長が、明の羈縻政策を司る奴児干都司(大陸の外満洲)に赴いて朝貢交易し、名目的な役職として波羅河(ポロホー)衛(羈縻衛)指揮官の称号を付与(冊封)[15] されていた。しかし、7年後の永享7年(1435年)に奴児干都司は廃止され、幌内川流域への影響は解消するものの、大陸との交易は15世紀後半にかけて続けられた。
このような供述がありました。
ちなみに場所は敷香あたりではないかな、、と思います
>>237
どんどん謎が深まるばかり、、

239 儚龍(めんgろん♂)@PSGoLIoz [2023/08/27(Sun) 00:27]
>>238 上:当時の基準においての「大通り」=「大路」の話ならば、それは長安のような大都市にのみ設置され得るので存在しえません。(中国に)間違えて伝わったとしても、「街」が都市名についている時点で(当時ならば)違和感を覚えると思います。ですから、日本人(その日本人は中国やロシア側?の人として探検したかもしれませんし、日本が進出した後に名付けたのかもわかりませんが)が考えたのでないなら、満州語のなんらかの単語を音写したものと考えられもします。
>>238 日本側で記録が残っているということは間宮氏の如くすでに日本の調査が及んでたのか、伝聞を記しただけなのか…。波羅河=ポロナイ川の流域にあったというのは百度百科や百度辞典などにも記述はあるので共通認識らしい。ですが流域という表現が曖昧過ぎて、その支流まで含めると比定地が多すぎるw 便宜的にはポロナイスクなのかもしれませんが…。中国関係の歴史って他と違い「資料だけある」みたいな事が多い気がするし、不確かな伝聞や嘘が書いてあるとも限らないし、辺境の冊封された人がまともに仕事してたかもわかりませんし、詰みですね…。現地に行くしかないか。

240 儚龍(めんgろん♂)@PSGoLIoz [2023/08/27(Sun) 00:38]
>>238 ちなみに私の示した資料の中で示されている明の建設したとされている樺太の城塞は北部西岸の嚢哈儿衛だけです(>>235で示した地図)、現在だと都市は…無いですね。あと清代の地図によるとポギビが伊對と表されているだけですね…。城塞の遺跡と言っても小高い丘や木片ぐらいしか期待できないでしょうけど、建築の痕跡があれば大発見ですね。

241 儚龍(めんgろん♂)@PSGoLIoz [2023/08/27(Sun) 01:10]
そういや、シビル・ハン国の二大首都も見つかってないのか。ツィンキ=トゥラ(Çinki-Tura)はチュメニに潰され、クァジリク(Qaslik)はトボルスク東方にあったハズなんだけど。チュメニはメキシコシティの如く元の遺跡を破壊しただろうからともかく、ここまで見つからないと「本当に存在したのか?」ってなる。
 あと関係ないけど、アトランティス北米説、プラトンの言ってるアトランティス首都の図ってティノチティトランに似てるかもだけど、それだとアステカ帝国何百年持続してんだよ

242 ラプラス@qqGBTtsS [2023/08/27(Sun) 09:00]
>>239
マジっすか、、じゃあ日本人やロシア人が「廟街」という名前をつけたのかな?
ちなみに間宮林蔵氏はあの辺をフヨリーと記していたらしいです。
いやでも現地に行くって?!
すご()
>>240
ほへえ、鉾部(ポゴピの日本名)は伊對って言ったんだ、、、
でも鉾部あたりは結構行ったことある人は少ないと思うし、今まであの辺あんまり人口を抱えたことはないから跡地くらいはありそうではあるが、、?
でも仮に輪籍(ポコべの少し北の岬)と汪艾(鉾部の少し南、和牙とも)あたりにあったとしたら、、いやさすがそれはないか
>>241
結構古代帝国の都市とかは壊されたりするんですかね?
もしくはロシアという地が結構開拓されていない過酷な地が多いのであまりそういう作業がしにくいのか、、?
ちなみになんですけど儚龍さんって唐突に言いますがなんでそんなに歴史関連に詳しいんですか?(((

243 儚龍(めんgろん♂)@PSGoLIoz [2023/08/27(Sun) 12:58]
>>242 上:ロシア人がつけたってよりは、やはり私は日本人が名付けたのだと思います。間宮氏はフヨリーと示していたと?満州語ですかね…?
 中:まぁ、清代に書いてある地図の都市領域が現在のそれに完全に一致するとは限りませんが、伊對は少なくとも清代は地理的に樺太への交通の要衝となるはずなので重要であったはず。今のところ普隆靄も、清代の地図から登場することが多いです。廟街同様、誠に中国王朝の統治が及んでいたのなら、石碑や寺でも見つかりそうなもんですけど、たとえあったとしても、普通に考えれば領土主張されるのを恐れ日本やソ連に破壊されてしまっているのではとも思います。
 下:古代帝国の都市、所謂「先住民」のモノというのは破壊されるのが人類のお決まりです。何故か。それはいまだ知らぬ文明を探査するという好奇心、自身の文明が優越しているという優越感、任務をこなすとしう使命感、後々に人道・民族自決を口実にされるであろう他国の介入や独立運動を避けるため、宗教的に使命が与えられたと考え現地を異教の地として蔑視した、いまだ知らぬ文明のため眠れる獅子として恐れた…など考えられます。現在では、一部の考古学者が従来の説を維持しなければ自身の信用と利益に関わるから、新説や別説の証拠を隠蔽しているという指摘もあります。
 ロシアが考古学的作業に向かないというのは気候的にそうかもしれませんし、最悪の場合、雪水に流される・浸食されるなどして完全に遺構がなくなってしまっているとも考えられます。残るとすれば概ね石造のもののみかと思われます。

244 儚龍(めんgろん♂)@PSGoLIoz [2023/08/27(Sun) 13:17]
>>242 よく調べてみたんですが、おそらく伊對はポギビではなくマガチ?付近です、申し訳ない。
 さらに詳細らしい地図です。
 http://www.txlzp.com/uploads/allimg/210415/10103523D-0.jpg

245 ラプラス@qqGBTtsS [2023/08/27(Sun) 14:42]
>>243
フヨリーは滿洲というよりかはニヴヒあたりだと思います。
ニコラエフスクではシベリア出兵時に日本が占領していたんですけど赤軍パルチザンによる尼港事件により、日本人などを含む市民のほぼ全員が虐殺されまた建物も粉々に破壊されてるんですよね
もしかしたらその時に、、、

まぁ、中華で言う滿洲系主体の国家であった(確か)清みたいな感じで古代文明で主体となる民族以外の民族が主体となっていた国家があるとそうなりますよね、
独立運動とかもあれでしょうし、、
ロシアはそう言う自然的な影響が強いのかな?
>>244
マガチというと落石(衣堆/亜港)の少し北にある街ですかね?
(でも落石の方が栄えていそうではあるが、、)




246 儚龍(めんgろん♂)@PSGoLIoz [2023/08/27(Sun) 21:35]
>>245 上;確かに二ヴフ語の選択肢もありますね。尼港事件あたりの出来事については双方の記述が矛盾するものもあり、プロパガンダに活用しやすい性質を持つ事件であることも鑑みると、記述を鵜呑みにしかねますが、日本側の資料に若干偏るならば、パルチザンからしたら元からいた先住民・満州人・中国人・高麗人(ロシア系朝鮮人)などの見分けが日本人とつくはずがないのでそうなったとも考えられます。建物が「全て」破壊されたというような記述は怪しいですが、大半が木造建築だったならば火をつければいいわけで、被害の内容は事実と近いと私は考えます。少なくとも、中国語版Wikipedia及び百度百科には「永寧寺」の石碑が現存していることは写真と記述で確認できるものの…

247 儚龍(めんgろん♂)@PSGoLIoz [2023/08/27(Sun) 22:10]
>>245 下:「主体となる民族以外の民族が主体となっていた国家」、所謂、征服王朝ですね。中国では、現代の中国では全ての中国の王朝を自民族(中国国内全民族を指す中国人としてのカテゴリ)のものと捉えるものの、清(満州)、元(蒙古)、金(満州=女真)などはまさしく征服王朝。北魏(拓跋部)みたいに征服した民族が自ら漢民族になっていった例は浸透王朝。それらの特徴としては征服者が遊牧民族であったこと(農耕ができない民族)。但しこれらの王朝は多数派が漢民族となるのでこれを常に考慮し、積極的に役人に登用したり譲歩政策を行いながら、自民族の独立性を保つのに尽力したようですが、やはり多勢に無勢か、反乱や革命により倒れていきましたね。金は武力で、元は紙幣を乱発し経済混乱、清の王室は最終的に日本に事実上簒奪されましたね(中:偽満州国/日:満州国) 独立運動というのは如何なる時も、(当該地域で)成功するには多数派であることが条件ですからね。その原理はある意味民主的とも言えます。
 私は樺太については初心者なので、伊對についてはもうちょっとよく調べてから比定します。アレクサンドロフスク=サハリンスキーが伊對だったら嬉しいのですけどね…。現時点ではマガチかな?という感じです。WEIBOで調べるとアレクサンドロフスク=サハリンスキー派、アルコヴォ=ベレク派、マガチ派、ドゥエ派がいましたが…。正直、清代の後の時代となると、ロシアと日本の開発能力は凄まじいものがあったので現在の都市規模は参考になるか微妙というのが自論です。やはり、貴方はアレクサンドロフスク=サハリンスキーを比定されますかね?

248 ラプラス@qqGBTtsS [2023/08/27(Sun) 22:40]
>>246
ほへえ、永寧寺碑って海参崴の博物館に送られたんじゃなかったんじゃなかったんでしたっけ?
でも双国の資料を見たほうがいいかな?
>>247
ですね、結構人口多めの国とかだと国土も拡げやすいでしょうし
あとは独立工作というか革命とかは結構当たり前だったりしますよね()

アレキサンドの方がマガチ(ムガチだと思われる)よりも平地が多いので僕はアレキサンド派ですかね


←戻る 全部 前10 次10 ↑先頭

read.php ver2 (2004/1/26)